2011年4月17日日曜日

最後のながぐつ29足

皆様の募金で買い集めた長ぐつは、最後、亘理町災害ボランティアセンターに引き取られ、ボランティアに来る人たちに貸し出されることになりました。

亘理町から石巻へ

4月9日、亘理町へ長ぐつを運びましたが、4月9日、10日の両日を使って、避難所の統合が行われるのと、対策本部に保管場所がないため、友人の家の軒先に置かせてもらうことになりました。

この友人の協力を得て、4月12日石巻市へながぐつが運ばれました。

そのときの模様の写真をアップしましたので、ご覧下さい。

2011/04/12,亘理町から石巻へ

第2回ながぐつプロジェクト【詳細レポート】 宮城農業高校


全ての物資をおろし終わり、一旦休憩。

その後、車で亘理町の荒浜地区と宮城農業高校を見に行く。
仙台東部道路の入り口を過ぎて荒浜地区に入っていくと、2週前よりもがれきの撤去がもっと大がかりに進んでいたこと。とはいえ、そのエリアも広いため、まだ手つかずの地域のほうが多い印象。3月11日に卒業式があった荒浜中学校の体育館に見えた、紅白の幕もすでに取られていました。

ここは阿武隈川の河口域でもあり、川からも乗り越えてきたと思われる津波にやられている様子であった。目の前には亘理大橋があるが、この橋は今見ると水面からかなり高いところにあるが、当時は水がすれすれまで来て、橋の上で人が取り残されていたとのことでした。
この橋を渡り、岩沼、名取へと比較的海沿いに近いところを仙台空港方向に進みます。
海岸に近いところをずっと走って行ったため、本当に建物という建物がありません。そんな中、海に近いところに立つ南浜中央病院の建物は残っていましたが、ここも津波後孤立していたと聞きました。

仙台空港まで着くと、通常はしっかりとフェンスでおおわれている空港の敷地が、一部そのまま入れるような状態になっていました。そこから農業高校にさらに海沿いの閖上(ゆりあげ)方向に向かう道路を通っていきたかったものの、通行止め。
陸側を迂回し、農業高校に着きました。地図で見ると、本当に海から近いので、津波が来たあとは屋上で夜を明かしたそうです。周囲には工場があったのか、タイヤがものすごい数散乱していて、川は油で汚れ、かなり匂いがしていました。

亘理に戻ってきたときには、きれいだった車はドアの高いところまで泥がつくような状態でした。

18時半過ぎに、私たちは亘理町を出発しました。
すでに暗くなっており、東北道も真っ暗。そのため心なしか、段差を示すコーンも多く感じました。
国見SAには、石巻から戻る途中の赤十字の方が数多く休憩されていました。

結局、私が武蔵小杉に着いたのは日付変わった2時前。さらに内藤さんが最後に車を返し、家に帰り着いたときには3時半で、ほぼ24時間内藤さんは活動していたことになりました。
お疲れ様でした。

第2回ながぐつプロジェクト【詳細レポート】 物資輸送

2011年4月9日(土)

午前4時半 川崎市内を出発。
2台で運ぶもう1台とは、7時に佐野ICで待ち合わせ。佐野を過ぎたころから、雨が降り始めました。しかし、2週前に持ってきた際には国見サービスエリアと白石ICの間は雪で真っ白だったのに、すでに4月。雪はなく、前回よりは暖かくなり、仙台にも少しずつ春が近づいています。
ちなみに亘理町は、宮城県の中で山元町とともに最も南側に位置しており、地元の方は笑いながら、一応「宮城の湘南」と呼ばれていると言っていました。

白石ICを降りて国道4号線を大河原町にある、柴田農林高校に向けて走らせる。2週前には全てのガソリンスタンドが長蛇だったのに、列を作っているスタンドは一つもありません。また、あいているコンビニも増えてきて、少しずつこの地域では日常に戻りつつあります。

名取市の海沿いにある宮城農業高校は津波の被害を受けて(生徒3名が津波の犠牲に)、柴田農林高校、加美農業高校、亘理高校に分かれて授業を受けることになっていますが、実習用のながぐつが流されてしまい、柴田農林高校にながぐつを持っていくことになりました。
柴田農林高校では、先生方と一部生徒の方にも荷物おろしを手伝っていただきました。

次の目的地は、山元町。
山の裏側を抜けていく道を進むと、途中に津波でやられた車が山積みにされていました。見れば、新しい車もありました。
30~40分進むと、海を臨む高台に出る。そこは海岸線が一望できるところで、当日はみんなここまで車で逃げてきたそうです。海岸線に見える木々は歯抜けの状態になり、横にずっと並んでいたという面影はありません。
ちょうど足もとに仙台東部有料道路の山元ICがあり、この道路は亘理町と山元町の境あたりで切れていました。山元町は、亘理町に比べ集落が海沿いに近いこと、土手代わりになった東部道路がちょうど終わっていることもあり、人口比で亘理町に比べ被害が大きかった町です。

荷物を積んだまま、山下小学校前のレストランわか菜でランチ。
食材の調達が限られている中で、頑張ってお店をあけられていました。一方、目の前の山下小学校には、山元町の自衛隊風呂が設営されていました。
山元町の物資保管場所は、体育文化センター。雨の中物資をおろしたその施設の中には、かなりの量の様々な物資がうず高く積まれていた印象がありました。

亘理町も山元町も海沿いに行く主要道路は通行が制限されていましたが、地元の方の案内で坂元地区で6号線をすぐ曲がったところで車を止めました。

坂元地区は海沿いまで建物という建物がほとんど残っていませんでした。ただ遠くには、坂元駅の跨線橋が、また1軒だけ本当に津波を受けたのかというくらい、遠くから見ると何も変わらず残っているように見える家があったのが印象的でした。また、私たちの足元にはがれき整理の際に出てきたと思われるアルバムが置いてありました。
同じ地域の6号線を挟んだ山側では、自衛隊の方が、今も捜索をしておりました。

最後に亘理町で最後の物資を置き、15時半に終了しました。